覚醒のすすめ

誇りと自信を取りもどすために!

満州事変を見てわかったこと

今回は満州事変を見てみる。

 

ちまたでは、日本が一方的に悪いという人が多い。
例によって事実を見てみたい。


まず、満州事変に関する事実は以下の通りである。

・1931年(昭和6年)に起こった日本と支那(当時は中華民国)との間の武力紛争(事変)である。
・1931年(昭和6年)に支那奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路が爆破された。
・日本の関東軍は、鉄道防衛の目的と称して反撃し、軍事行動を拡大した。
・1932(昭和7年)に満州国が建国された(清の最後の皇帝であった溥儀が執政)。
・1932(昭和7年)のリットン調査団の報告書が提出された。
  日本軍の自衛行為を認めない。
  満洲国は独立とは言い難く、その存在自体が日本軍に支えられている。
  満洲に日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべきである。
・1933年(昭和8年)の国際連盟総会で、「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」の採択を不服とした日本は、国際連盟を脱退した。


当時の背景は以下の通りである。

日露戦争後の1906年明治39年)に南満洲鉄道が設立され、鉄道守備隊(のちの関東軍)が駐留していた。
・1911年(明治44年)に支那では辛亥革命が起こり、清が倒れ中華民国が誕生した。
・1918年(大正7年)に、日本は支那に対して対華21カ条要求を出した。
支那辛亥革命後、軍閥による対立が続いており、複数の政権が樹立された状態であった(国家として成立していなかった)。
・1923年(大正12年)に臨城事件が起こり、多数の英米人が被害を受けたため、英米を中心に列強による鉄道警備管理共同案が議論された。
・1928年(昭和3年)に、奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された。
・1928年(昭和3年)に、支那は清時代に締結した諸条約の無効を主張し、日清通商航海条約の破毀を一方的に宣言した。
・1929年(昭和4年)に、支那は東清鉄道付属地に住んでいた白系ロシア人に圧力をかけ、中ソ紛争が勃発した。
・1931年(昭和6年)に日本軍の密偵参謀本部将校)が張学良配下の屯墾軍に拘束され処刑された。


上記を見て、素朴な疑問を持った。
なぜ、日本は世界に対して満州での一連の出来事を客観的に主張できなかったのであろうか?
・当時の支那は、軍閥による勢力争いの最中で、国として成立していない(無法地帯である)。
支那政府には治安維持能力がなく、また条約を遵守するという行為をとっていない。
関東軍満州駐留は合法的なものであり、権益を自衛するための行為は侵略にあたらない。

 

それに加えて、リットン調査団の報告書は、一方的に日本を断罪するものではなく、権益の確保は理解していた。領土の確保ではなく、権益確保のために内容を受け入れるという選択肢はなかったのか?

 

こんな疑問を持つのは私だけであろうか?
今だから言えるのかも知れないが…

 

調べてわかったのは、満州事変は侵略ではなく自衛のための軍事行動である。
ただし、起こったあとの処理はまずかった。

欧米列強への対応が、非常にまずかったと言うことは間違いない。

(白人国家は、白人以外が権力を持つことを認めていない。)

 

当時の国力を考えると、名を捨てて実を取るような行為も生き残るためには必要だったかも…

残念である。

 

日本にとって第一次世界大戦とは何だったのか?

第一次世界大戦は、非常に分かりにくかった。当時の各国の勢力争い、過去の怨念などが入り組んでおり、日本の位置づけが何なのか見づらいからだ。

 

以下に、簡単に整理して見た。

 

まず、戦争に関する事実は以下の通りである。

・1914年(大正3年)〜1918年(大正7年)に起こった世界規模の戦争である(同盟国対連合国)。
・主戦場はヨーロッパで、900万人以上の戦死者を出した。
・同盟国側はドイツ、オーストリア=ハンガリーオスマントルコブルガリア
・連合国側はイギリス、フランス、ロシア、セルビアモンテネグロアメリカ、日本など多数。
・1918年(大正7年)に連合国側の勝利で終結した。
・1919年(大正8年)のパリ講和会議にてドイツは膨大な賠償金を支払うことになった。

 

当時の背景は以下の通りである。
・ヨーロッパ各国が領土・植民地獲得をめぐって敵対状況であった。
  フランス対ドイツ(普仏戦争でフランスは敗戦し領土を失っていた)
  イギリスは植民地政策を有利に進めるためフランス・ロシアと協約を結んだ。
  オーストリアハンガリーボスニア・ヘルツェゴビナを併合し、ロシアとの緊張状態を高めた。
  モロッコをめぐってフランスとドイツの対立が進んだ。
  オスマントルコとイタリアが戦争しイタリアがオスマントルコ領土を占領した。
  バルカン半島で二度にわたる戦争があり、第一次バルカン戦争ではオスマントルコが敗れた。第二次バルカン戦争ではブルガリアが敗れた。
・1914年(大正3年)にサラエヴォオーストリアハンガリーの皇太子がセルビア人により暗殺された。
オーストリアハンガリーセルビアの戦争に、ロシア・ドイツが介入し、それぞれの同盟関係の国が参戦した結果、大規模な戦争になった。

 

では、ヨーロッパと遠く離れた日本がなぜ参戦したのか?
・イギリスと日英同盟を結んでおり、参戦しなければならなかった。

 

日本の戦闘は以下の通りである。
・イギリス軍と合同で、支那におけるドイツの租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略した。
・地中海へ艦隊を派遣し護衛・哨戒活動を行った。

 

日本は、同時期に以下の行為を行なった。
・対華21カ条要求
  中華民国政府に行った外交交渉において提示した21か条の要求である。
  山東ドイツ権益の善後処理、満蒙における日本の権益問、在華日本人の条約上の法益保護問題など。
・シベリア出兵
  「ロシア革命」が勃発し、イギリスとフランスの依頼によりアメリカとともに出兵した。

 

余談だが、ドイツ人捕虜を優遇したことで、ドイツ料理やビール、パンの技術が伝わった。

 

そして、この戦争を契機に日本の国際的地位は向上した。


疑問だった「第一次世界大戦とは日本にとって何だったのか?」は、
・同盟国(イギリス)との約束を守り参戦した。

 

これだけだと思う。

 

ドイツが所有していた領土の統治権を得たことや、国際的地位があがったことなどあるが、それは参戦の結果である。

 

「領土拡大を目的に参戦した。」、「欧米各国を敵に回す契機になった。」という人がいる。
くどいようだが、逆算して歴史を見ることはやめたい。


逆算した理由づけにより、事象を色眼鏡で見るのではなく、事実と流れを見ていこう。

 

日露戦争

日露戦争をみてみる。

 

日露戦争の事実は以下の通りである。
・1904年(明治37年)〜 1905年(明治38年)に起こった日本とロシアとの戦争である。
・主戦場は、支那北東部、日本海であった。
・1905年(明治38年)にポーツマス条約の締結により講和し戦争を終結した。
・日本は、ロシア領の南樺太とロシアの租借地があった関東州(遼東半島先端部と東清鉄道南満州支線)を獲得した。


当時の背景は以下の通りである。


ロシアの立場
 ・国が高緯度地帯に位置するため、年間を通して凍結しない「不凍港」を獲得したかった。

  このため南下政策を推進した。

 ・南下ルートを、バルカン半島中央アジア、極東の3ルートとしていた。
 ・三国干渉により東アジアにおける第2の不凍港となる旅順租借地を獲得していた。
 ・極東ルートとして朝鮮半島支配下におきたかった。すなわち、旅順をベースとした勢力圏を確保して東アジアでの活発な貿易を行うための基盤を作りたかった。

 

日本の立場
 ・日清戦争後の三国干渉で、遼東半島の領有権を放棄させられた。最終的には、ロシアが旅順の租借権を獲得した。
 ・ロシアに朝鮮半島を支配されると、次は日本が支配される脅威を想定した。
 ・日本海制海権喪失よる産業的打撃を懸念した。


当時のロシアの南下政策は、弱い部分を突いて獲得する戦略であり非常に現実的である。
極東は清が衰退しており、朝鮮は政府が国内を掌握できておらず不安定であった。日本にとっては対岸の火事ではない。次は自分の番であると思うのは当然である。

 

当時の日本は、国力的に不利な状況は認識しており、極力戦争回避で動いていた。
この戦争は、止むに止まれず戦った自衛のための戦争なのである。

 

では、なぜ負けなかったのか?
私は、この戦争は勝ったとは思っていない。負けなかったというのが正しい表現だと思う。
負けなかった理由は以下の3つと考える。
(1)日英同盟
  ロシアの南下政策がイギリスの権益と衝突することから日英同盟を結んでいた。
  このため、イギリスの支援を受けた。
(2)外貨調達
  欧米各国で味方を作り、戦費を獲得した。単独で戦争したのではなく味方を作って戦った。
(3)革命運動への支援工作
  明石元二郎による革命運動への支援工作でロシアの内部崩壊を誘発した。
  すなわち、国家としての戦争継続が困難な情勢に追い込んだ。

 

どう見ても、武力の勝利なのではなく、総合的な政策の勝利である。
明治の人は偉かった!
この一言につきる。

 

戦争は外交手段の一つと言った人がいるが、正解だと思っている。
きれいごとだけでは、国が維持できないことは歴史を見れば分かる。
負ければ今頃植民地であり、虐げられた日々を送っていたのは明白。

 

命を捧げて戦ってくれた先人に感謝である。

 

日清戦争

今回は日清戦争を理解してみる。

 

日清戦争の事実は以下の通りである。
・1894年(明治27年)に起こった朝鮮での甲午農民戦争制圧に日本と支那(当時は清)が出兵した。
甲午農民戦争終結後も両国の軍隊が朝鮮に駐留し、双方が対立して発生した。
・1894年(明治27年)から1895年(明治28年)にかけて、朝鮮半島北部、支那東部、及び沿海を主戦場とした。
・1895年(明治28年)に、下関で講和条約を締結し、日本は賠償金と領土(台湾、澎湖諸島遼東半島)を獲得した。

 

当時の背景は以下の通りである。
・朝鮮政府は、国内を掌握できず、政情不安定であった。
・反乱(甲午農民戦争)を鎮圧できなかった朝鮮政府が、清に軍事支援を求めて清が出兵した。
・日本は、朝鮮に滞在する日本人の保護と、日本公使館の警備を理由に出兵した。
 (清とは天津条約を締結してあるので違法ではない)
・日本は清に対し朝鮮の独立援助と内政改革を共同でおこなうことを提案した。
・清は「日本の撤兵が条件」として提案を拒否した。


結果的に、この戦争から大陸進出が始まったのは事実である。一部の人は大陸進出の足がかりとするための出兵と言っている。しかし、これも過去から逆算した主張であると思える。

 

出兵の目的は明確である。日本国内の防衛のためである。日本としては、朝鮮政府が自立・安定してもらわないと困るからである。

なぜなら、朝鮮半島が他国に侵略されると、次に狙われるのは日本だから。

(他国というのは、南下政策を進行していたロシア)

 

当時の日本政府は、朝鮮が清の属国状態では、ロシアの支配下になるのは時間の問題と危険視していたと思われる。しかし、当時の日本に朝鮮を支配して防衛するだけの余力はない。朝鮮に自立してもらうのが一番有効な手段であると考え、独立援助と内政改革を提案したと思える。
この方法は、非常に現実的である。

 

くどいようだが、歴史は逆算して理由づけしてはいけない。当時の背景を理解し、事実を積み上げることで理解できる。

 

マスコミや左翼学者のいうことなど信用せず、自分で調べて、自分の頭で結論を出して行こう!

 

江華島事件から思ったこと

歴史は逆算して結びつけてはいけない。
江華島事件をみてみると、逆算しているように思えてならないからだ。

 

江華島事件は、「朝鮮に対して挑発行為をしたから武力衝突が起こった」など諸説がある。

例によって事実をみてみたい。

 

事実は以下の通りである。
・1875年(明治8年)に発生した日本と朝鮮の武力衝突である。
・日本の軍艦雲揚が、国旗を揚げて江華島近辺に停泊していた。
・端艇で江華島砲台営門前を通過しようとした時、突然大小砲にて砲撃された。
  ※端艇とはボートのようなもの
・日本側は上陸し砲台を占拠した。
・武器の押収、捕虜の解放、施設の焼却を行い撤退した。

 

端艇が江華島砲台営門前を通過しようとした目的は、上陸して水の補給を依頼するためである。
これについては、当時の電文報告の記録が残っている。

 

また、当時の背景は以下の通りである。
・朝鮮政府は、対馬藩を通じて江戸幕府と交流があった。
明治維新後、明治新政府は朝鮮政府に新政府樹立に関する通知を行なった。
・朝鮮政府は、明治新政府を認めず受取りを拒否した。
・釜山には日本館があり、薪水の提供や朝鮮商人の出入があった。
・1874年(明治7年)に、朝鮮政府は明治新政府からの書簡を受取り明治政府を承認した。
 日本国旗についても承認済み。
・1875年(明治8年)に、朝鮮政府は前年の承認を翻し、日本側の入国を拒否した。


この事件を侵略目的で近づき、挑発行為を行い武力衝突をおこさせたという人がいる。これは、その後の1876年(明治9年)に日本と李氏朝鮮との間で日朝修好条規(江華条約)が締結されたことから逆算しているロジックである。
また、当時征韓論が沸騰していた時期であることから結びつけているとも思われる。しかし、江華島事件発生前に征韓論派は政府から排除されているので、これとの結びつけはおかしい。


私の認識は以下の通りである。
・日本は、朝鮮半島の測量を行なっていた。
・日本は、航海中の軍艦に水の補給を必要とした。
・朝鮮政府は、日本政府に対して破約と絶交を突きつけた上に、自ら武力行使を行なった。

 

以下は、私の個人的見解である。

朝鮮半島の測量は、軍事的防衛のための事前準備と考える。当時の仮想敵国はロシアであり、戦争になったときに、支那(当時は清)・朝鮮が戦場になることを想定していた。

また当時は、まだ明治維新から数年しかたっておらず、国としての整備で手いっぱいの時期である。軍事力・経済力ともに不足しており、自国を守ることで精一杯の状態のはずである。

海外制覇の始まりなどという人がいるが、その後の経緯から逆算した主張であると思える。

 

 

歴史を見るには当時の世界との関係を見ることが不可欠

 自虐史観は「大東亜戦争」以降から始まったものと思われる。しかし、歴史は「大東亜戦争」から始まったものではない。日本の場合は、2000年以上続いている世界最古の国である(ちなみに今年は皇紀2678年である)。有史と言われる時期から見ていく必要を感じた。

 

 まず、日本が過去に外国と大きな戦争をしたのは、以下と認識している。江華島事件ノモンハン事変は、規模はそれほど大きくはないが、対外国との戦争ということであげてみた。

 三韓征伐
 白村江の戦い
 元寇
 朝鮮征伐
 江華島事件
 日清戦争
 日露戦争
 第一次世界大戦
 満州事変
 ノモンハン事変
 日中戦争
 大東亜戦争

 

 「三韓征伐」、「白村江の戦い」については諸説ある。私は歴史学者でないので、「どのような背景」があり、「どのような利害の対立でこの戦争に至ったのか」については詳しく語る自信がない。何が正論なのかが判断できないからだ。
従って、事実のみを記載する。
三韓征伐以降、朝鮮半島新羅高句麗百済)は日本の支配下となった。
白村江の戦い以降、朝鮮半島新羅支配下となった。

 

 「元寇」については、防錆戦争であり、利害云々の話ではない。
「外国の侵略から自国を守った」が、事実である。

 

 比較的史実が明確になっているのは、豊臣秀吉時代の「朝鮮征伐(文禄・慶長の役)」である。

 私は、以前までは、豊臣秀吉の天下統一後の野望と認識していた。学校では、なぜ朝鮮に出兵したのか教えてくれなかった。また、メディアでは、国内を平定した秀吉が大きな野望を抱き、外国に進出したように言われていたので、これを信じてしまっていた(完全に思考停止していた)。

 しかし、これは誤りであると考える。理由は、当時の世界を見ればわかる。

 

私が認識する事実は以下の通りである。
・豊富秀吉は、朝鮮半島に出兵したが、支配下に置くことはできなかった。
・出兵理由は、支那(当時は「明」)を支配下に置くためである。
・明を支配下に置く理由は、スペインから国内を守るためである。

 

 防衛線を日本国としたのではなく、明にする戦略をとったと推測される。この考え方は、極めて合理的な戦略である。国内に攻め込まれて被害を出す前に、国外の防衛線で食い止めるのである。

 

 余談はさておき、なぜこれに至ったかである。

朝鮮征伐は、西暦1592年〜1598年の出来事である。当時はスペインの世界制覇が進んでいた時代であり、キリスト教の布教という名目で他国に侵入し、侵略した土地で殺戮・略奪を繰り返している。当時のキリスト教のいう「人々の幸せ」というのは、白人の幸せであり、白人以外は含まれていない。(今は違うと思いたいが…)

 

 豊富秀吉は、キリスト教の危険性を認識し、自国を守る必要を感じていたと思われる。

 当時、ポルトガル人は、日本人を奴隷として売買していた。豊富秀吉は、ポルトガル人と交渉して、奴隷貿易を停止するよう要求している。キリスト教を否定する立場となる。

 豊富秀吉は、明がスペインに侵略されれば、次は日本であることを予測し、その前に止めておきたかったものと考えられる。

 

 私の結論は、「朝鮮征伐は、他国侵略を目的としたものではなく、自衛のための先制手段」である。

 

 こんな形で、少しずつ歴史を見ていきたいと思う。大東亜戦争にたどり着くまでは、長い道のりになるかも…

 

自虐史観の原因は?

なぜ自虐史観に陥ったのか?なぜ自虐史観に陥ったのか?

原因はたぶんこれ、

 ↓↓↓

1. 教育機関の怠惰 → 近代史をまともに教えていない。

2.メディアや社会の洗脳 → 「日本は悪いことをした」、「欧米はすばらしい」 など。

3.思考停止 → 教育・メディアの内容を疑うことなく信じてしまった私自身の怠惰。


 学校で習った歴史では、古代から明治維新くらいまでは、それなにりに手厚かった。しかし、近代史は非常に軽かった印象がある。このため、あまり記憶がない。また、紛争の原因を曖昧に説明し、なぜ紛争が起こったのかを説明していない。事実のみの列挙に終わっていた。

 それに輪をかけるようにメディアの自虐史観満載の内容を真に受けた。恥ずかしながら、つい15年ほど前までは、これが真実だと思っていた。

 また、私の祖父が大東亜戦争に召集された人だったこともある。幸い生きて帰ってきたが、それが原因で体を壊し、思うように働けなかったと聞いている。その代わりに家を支えたのが私の父だった。そんな状況もあり、祖母からは大東亜戦争については不平・不満しか聞いたことがない。今思えば常に被害者意識丸出しだった。そんな人は、祖母だけではなかったかもしれないが。

 

 これが、WGIP(War Guilt Information Program)の効果なのか…

 

 そして私は、そのような内容を信じ、全く疑うことをしなかった。まさに思考停止状態だったと言える。今だから、当時を冷静に見ることができて、こんなことが言えるのかもしれない。その状況では、仕方がなかったのかもしれない。

 でも、これは言い訳であると思う。思考停止したのは私自身なのだから。今に至っているのは、私自身の責任なのだから。

 

 年齢を重ねるにつれて、そんな状況に疑問を感じていた。誇りを持てないことに息苦しさを覚えていた。こんな気持ちのまま、人生の終盤を迎えることが非常に嫌だった。


 ここ10数年の間、自分なりに調べて理解したことがある。それは、戦争はイデオロギーの対立で起こるのではなく、利害の対立で起こるということだ。当たり前かもしれないが、やっと目が覚めた。

 

 まずは、覚醒の第一歩として、「利害の対立」という観点で、これまで教わってきた歴史感を疑ってみようと思う。